深夜2時。
薄暗いリビングで、ようやく眠りについた1歳の息子の寝顔を見つめながら、
私は声を出さずにポロポロと涙を流していた。
時計の針がカチカチと進む音だけが響く部屋で、
ただただ、涙が止まらなかった。
32歳の私は、地方都市で事務職として働きながら、
1歳の息子を育てる、いわゆる「時短勤務のワーキングマザー」だ。
その日の私は、朝からずっと見えない何かに追われていた。
出勤前から息子のイヤイヤが炸裂し、ご飯を床に投げ捨てられた朝。
なんとか保育園に送り届け、息を切らして職場に駆け込む。
時短勤務とはいえ、与えられている仕事の量はフルタイムの時とほとんど変わらない。
時間内に終わらせるため、お昼休憩もそこそこにパソコンにかじりつく。
そして、お迎えの時間ギリギリに再び保育園へ走り、
帰宅後は、足元にまとわりついて泣き叫ぶ息子を片手でなだめながら、
もう片方の手で夕飯の支度をする。
スマートフォンが震え、画面を見ると夫からの短いLINE。
「今日も遅くなる。先寝てて」
それを見た瞬間、私の中で何かがきしむ音がした。
息子の寝かしつけが終わる頃には、
私の体力も気力も、文字通り完全に底をついていた。
重い体を引きずってリビングに戻ると、
シンクには山積みになった夕飯の食器。
床には足の踏み場もないほど散らばったおもちゃ。
朝、急いで取り込んだままソファに放置された洗濯物の山。
それを見た瞬間、張り詰めていた糸がプツンと切れた。
なんで私ばっかり。
なんで私だけが、こんなに毎日ギリギリで頑張らなきゃいけないの。
私たち、共働きなのに。
二人で親になったはずなのに。
どうして私だけが、こんなに孤独なんだろう。
そんな真っ暗な感情がぐるぐると頭を巡り、
気づけば私は、床に座り込んで声を殺して泣いていた。
限界を迎えたワンオペ育児と、無神経な言葉
泣き疲れて、放心状態のままソファにもたれかかっていると、
玄関の鍵が開く音がして、夫が帰宅した。
時計はすでに深夜1時を回っている。
「ただいま。うわ、部屋めっちゃ散らかってるな」
ネクタイを緩めながら発した、悪気のないその一言。
それが、私の心に鋭く、深く突き刺さった。
いつもなら「ごめん、息子の寝かしつけに時間かかっちゃって。後で片付けるね」と
笑って返すところだ。
でも、その日の私は違った。
「散らかってるって思うなら、あなたが片付けてよ!!」
自分でも驚くほどの、低くて震える声が出た。
夫は驚いたように立ち止まり、私を見た。
「私だって働いてる。私だって疲れてる。
なのに、朝から晩までずっと走って、帰ってきてからも一人で全部やってるの。
あなたは仕事だけしてればいいかもしれないけど、私は違う。
もう無理。限界だよ。助けてよ……」
一度口に出してしまうと、もう止まらなかった。
感情が堰を切ったようにあふれ出し、
私は子どものように声を上げて泣きじゃくった。
夫は無言のままカバンを床に置き、私の隣に座った。
そして、しばらくの沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。
夫の告白と、すれ違っていた思い
「ごめん。本当にごめん」
夫の第一声は、よくある言い訳や反論ではなかった。
「仕事が忙しいのを理由にして、君に家のことを全部押し付けてた。
『時短勤務なんだから、家事と育児はできるだろう』って、
どこかで君の頑張りに甘えてたんだと思う」
その言葉を聞いて、私の怒りは少しずつ、涙と一緒に溶けていくのを感じた。
「でもね」と夫は静かに続けた。
「俺、君がどれくらい大変なのか、どれくらい追い詰められているのか、
本当は全然わかってなかったんだ。
いつも家は綺麗だったし、ご飯も用意されてたし、
君は不満も言わずに完璧にこなしてくれてたから。
だから、今日こうして感情を爆発させてくれて、泣いてくれて、
俺はやっと、君の限界に気づけたんだよ。気づけなくて、本当にごめん」
ハッとした。
私はずっと、「言わなくても察してほしい」と思っていた。
この大変さを、この疲労感を、隣にいるならわかってくれるはずだと。
でも、言葉にしなければ伝わらない。
私が「完璧な母親」「完璧な妻」であろうと無理をして、
できない自分を隠して、一人で抱え込んでいたから、
彼は「大丈夫なんだ」と誤解していたのだ。
勝手に限界を迎えて、勝手に絶望して、勝手に壁を作っていたのは、
私の方でもあったのだと気づかされた。
夫婦で決めた「やらないことリスト」という解決策
その夜、私たちは初めて、
育児と家事の分担について、お互いの本音をぶつけ合いながら真剣に話し合った。
でも、私たちが決めたのは「誰が何をやるか」ではなく、
「何をやめるか」だった。
・平日の夕飯は手作りに一切こだわらない(お惣菜、冷凍食品、レトルトをフル活用する)
・洗濯物はきれいにたたまない(各自の専用ボックスに放り込むだけ)
・部屋の片付けは、平日は最低限にして週末にまとめてやる
・ルンバや食洗機など、頼れる家電はすぐに導入する
「君が毎日笑っていられることのほうが、
ホコリのない綺麗な部屋や、一汁三菜の手作りのご飯より、ずっとずっと大事だから」
夫のその言葉に、私はまた少し泣いてしまった。
あれから数ヶ月。
我が家は相変わらず散らかっていることが多いし、
平日の夕食は買ってきたお惣菜が並ぶことが当たり前になった。
でも、私の心はずっと軽くなった。
息子のイヤイヤにも、少しだけ余裕を持って向き合えるようになった。
夫も、以前より早く帰ってくる日が増えた。
「今日は俺がお風呂入れるね」
「週末の離乳食の作り置きは俺がやるよ」
そんな風に、自分から動いてくれるようになった。
ワンオペ育児で限界を感じて、リビングで一人泣き叫んだあの夜。
あの時、我慢せずに感情を爆発させて、本当に良かったと心から思う。
沈黙して耐え続けることは、決して美徳じゃない。
「察してほしい」と待つのではなく、
時には「もう無理」「助けて」と声を上げる勇気が、
家族の形をより良く変えていく、一番の近道になる。
完璧じゃなくていい。
一人で全部抱え込まなくていい。
少しずつ、そう思えるようになってきた自分が、今はとても好きだ。