「明日から復帰だね。無理しないでね」
育休最終日の夜。
夫からの優しい言葉に、私は「うん、ありがとう」と笑顔で返したけれど、胸の奥はドロドロとした不安でいっぱいだった。
私は、33歳。
1歳の息子を保育園に預け、明日から元の会社に時短勤務で復帰する。
産前は、それなりに責任のある仕事を任されていた。
残業もいとわず、やりがいを感じて働いていた。
でも、明日からの私は「16時に帰る時短社員」だ。
「私の居場所、まだあるのかな」
不安に押し潰されそうになりながら、私はベッドに入った。
マミートラックという見えないレール
復帰初日。
温かく迎えてくれた職場のメンバーにホッとしたのも束の間、私に与えられた仕事は、産前とは全く違うものだった。
データ入力、簡単な資料の修正、電話応対。
誰でもできる、いわゆる「アシスタント業務」ばかり。
上司は「時短で大変だろうから、責任の重い仕事は外しておいたよ」と優しく言ってくれた。
確かに、ありがたい配慮だ。
保育園からの急な呼び出しで、いつ早退するかもわからない身としては、責任の重い仕事を抱えるのは怖い。
でも、同時に強烈な「虚しさ」が襲ってきた。
私がいなくても回る仕事。
「〇〇さん(私)じゃなきゃダメ」ではない仕事。
これが、噂に聞いていた「マミートラック」なのか。
私は、一度このレールに乗ったら、二度と元のキャリアには戻れないような気がして絶望した。
「申し訳なさ」で呼吸が苦しい
マミートラックの虚しさに加えて、私を苦しめたのが「常に誰かに謝っている感覚」だった。
16時。
「お先に失礼します」と席を立つ時、残業している後輩たちの冷ややかな(と私には思えた)視線が背中に刺さる。
保育園から「お熱が出ました」と電話がかかってきて、会議を中座する時。
「すみません、すみません」と何度も頭を下げながら、逃げるように会社を出る。
家に帰れば、熱でぐったりしている息子に対して、「保育園に入れてごめんね」と心の中で謝る。
会社にも、子供にも、夫にも、常に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「私、何のために働いてるんだろう」
給料も減り、やりがいもなく、ただ周りに迷惑をかけて謝るだけの毎日。
いっそ辞めてしまおうか。
何度もそう思った。
「今」しか見えないから苦しい
復帰から半年が経った頃。
同じく時短勤務をしている先輩ママ社員と、ランチに行く機会があった。
「私も復帰したての頃は、毎日辞めたいって思ってたよ」
先輩は、私の愚痴を聞きながら笑って言った。
「マミートラックって、確かに悔しいよね。でもさ、それって『今の自分』の物差しで測ってるから苦しいんじゃない?」
先輩の言葉に、私は首を傾げた。
「子供が小さいこの時期って、長い社会人生活の中で見たら、ほんの数年のことなんだよね。今は『細く長く、とにかく会社にしがみつく時期』って割り切っちゃえばいいのよ」
「キャリアの空白」ではなく、「キャリアの助走期間」。
先輩は、子供が小学生になったタイミングでフルタイムに戻り、今はまた第一線で活躍している。
「今は無理でも、必ずまた走れる時期が来るから」
「完璧な両立」なんて存在しない
その言葉を聞いて、私はハッとした。
私は、「産前の自分」と「今の自分」を比べて、勝手に絶望していただけだ。
「完璧な仕事」と「完璧な育児」を両立させようとして、自分で自分の首を絞めていた。
でも、そんなものは幻想だ。
今は、子供が熱を出せば休むのが当たり前。
時短で帰るのが当たり前。
そのために、周りに配慮してもらうのも、ある意味「お互い様」なんだ。
「すみません」と謝る代わりに、「ありがとうございます」と言うようにした。
簡単なデータ入力の仕事でも、「誰かがやらなきゃいけない大切な仕事」だと割り切って、丁寧にこなすようにした。
今の私にできること
今でも、マミートラックに焦りを感じることはある。
同期が昇進していくのを見て、悔しくてたまらない日もある。
でも、「いつかまた走れる日が来る」と思えれば、今のこの「アシスタント期間」も無駄じゃないと思えるようになった。
働きながら子育てをするのは、本当に過酷だ。
毎日綱渡りで、心も体もボロボロになる。
もし、かつての私のように、復帰後のマミートラックと罪悪感に苦しんでいるお母さんがいたら。
今はただ、「辞めずにしがみついている」だけで、100点満点だと言ってあげたい。
焦らなくてもいい。
あなたのキャリアは、ここで終わるわけじゃないのだから。