「今日もマスクでいいや」
朝、洗面所の鏡の前で、私はファンデーションのボトルに伸ばしかけた手を引っ込めた。
私は、33歳のパート主婦。
3歳の息子を保育園に預け、近所のスーパーで週に4日働いている。
コロナ禍をきっかけに始まった「マスク生活」。
世間では徐々にマスクを外す人が増えてきたけれど、私は依然として毎日マスクをつけて外出していた。
理由は一つ。
「メイクをサボれるから」だ。
「顔の半分」を隠す安心感
独身の頃は、メイクが大好きだった。
毎朝30分かけて、ベースメイクからアイシャドウのグラデーションまで丁寧に仕上げていた。
新しい季節のコスメが発売されると、デパートのカウンターに走ったものだ。
でも、子供が産まれてから、私の「美容の優先順位」は急降下した。
朝は、息子の着替えと朝食の準備で1分1秒を争う戦場。
自分の顔にかまっている暇なんてない。
そんな私にとって、「マスク生活」は神様からのプレゼントのようなものだった。
日焼け止めをパパッと塗って、眉毛だけ描けば、あとはマスクで顔の半分を隠せる。
ほうれい線も、シミも、口元のたるみも、全部なかったことにできる。
「なんて楽なんだろう」
最初はそう思っていた。
でも、その「楽さ」に甘え続けるうちに、私の心には小さな黒い感情が芽生え始めていた。
「手抜き」への罪悪感
ある日、保育園の送迎で、いつも綺麗なママ友に会った。
彼女はマスクを外していて、血色の良いリップと丁寧にチークが乗った頬がキラキラと輝いていた。
「おはよう!最近あったかくなってきたね」
笑顔で話しかけられ、私は「うん、そうだね」と答えながら、無意識に自分のマスクをグッと上に引き上げた。
彼女の顔を見た後、洗面所で自分の顔を鏡で見るのが怖くなった。
マスクの下の私は、リップも塗らず、血色が悪く、ほうれい線がくっきりと目立っている。
「私、おばさんになったな」
メイクを手抜きしている自分。
女としての自分を完全に諦めてしまっている自分。
そんな自分に対する「罪悪感」が、日に日に大きくなっていった。
マスクを外せない本当の理由
「明日こそは、ちゃんとメイクしよう」
夜にはそう決意するのに、翌朝になると「やっぱり面倒くさい」「誰も私の顔なんて見てないし」と言い訳をして、またマスクに頼ってしまう。
夫にも「まだマスクしてるの?」と不思議がられたけれど、「職場で風邪が流行ってるから」と嘘をついた。
私がマスクを外せないのは、風邪が怖いからじゃない。
「手抜きしてボロボロになった自分の顔」を、世間に晒すのが怖かったのだ。
マスクは、私の手抜きを隠すための「防空壕」だった。
リップ一本の勇気
そんな私を変えてくれたのは、息子の一言だった。
休日の午後。
私がソファで昼寝から目覚めると、横で息子がお絵かきをしていた。
「ママ、かけたよ!」
見せてくれた画用紙には、私と息子の顔が描かれていた。
でも、その絵を見て私はハッとした。
息子の顔には「にっこりした赤い口」が描かれているのに、私の顔には口が描かれていなかったのだ。
「あれ?ママのお口は?」
私が聞くと、息子は無邪気に答えた。
「だってママ、いつもおくち隠してるから、わかんないもん」
その言葉に、私は胸を鈍器で殴られたようなショックを受けた。
息子にとって、私の顔は「マスクで半分隠れた顔」だったのだ。
私が笑っているのか、怒っているのか、口元の表情すら伝えられていなかったなんて。
その日、私は久しぶりに化粧ポーチを開けた。
フルメイクは無理だ。
でも、せめて「口元」だけは出そう。
私は、ずっと前に買ったまま使っていなかった、少し明るめのコーラルピンクのリップを取り出した。
マスクで隠さずに、そのまま唇に滑らせる。
鏡に映った私は、ほんの少しだけ血色が良くなり、数年前の「自分」を取り戻したような気がした。
「完璧」じゃなくて「ご機嫌」でいること
翌日から、私はマスクを外して外出するようになった。
ファンデーションは相変わらず手抜きだし、アイシャドウも単色を適当に塗るだけ。
でも、リップだけはちゃんと塗るようにした。
保育園の送迎で、先生やママ友に「おはようございます!」と声をかける時。
マスク越しではなく、直接笑顔を見せられることが、こんなにも気持ちがいいなんて知らなかった。
息子も、「ママ、お口赤いね!かわいい!」と喜んでくれた。
毎日完璧にメイクをする必要なんてない。
大事なのは、「手抜きしている自分」に罪悪感を抱いて隠れることではなく、「手抜きでも、少しだけ気分が上がるポイント」を見つけることだ。
私にとっては、それが「一本のリップ」だった。
もし、かつての私のように、マスク生活に甘えて自分を諦めかけているお母さんがいたら。
明日の朝、リップだけでも塗ってみてほしい。
そして、鏡の前で少しだけ笑ってみる。
その小さな一歩が、手抜きへの罪悪感を吹き飛ばし、あなたを「ご機嫌なお母さん」にしてくれるはずだから。