SNSを開けば、真っ白で何もないリビングの写真。
「持たない暮らし」「ミニマリストの心地よい生活」
そんなハッシュタグを見るたびに、私は自分の部屋を見回してため息をついた。
私は、30歳の専業主婦。
夫と3歳の息子と、2LDKの賃貸マンションに住んでいる。
部屋には、息子のカラフルなおもちゃが散乱し、ダイニングテーブルの上には郵便物の山。
ソファには、たたむのを後回しにした洗濯物が積み上がっている。
「私も、あんな風にスッキリ暮らしたい」
そう思い立った日から、私の「捨てる」スイッチが入った。
狂気じみた断捨離
最初は、着ていない服や使っていない食器からだった。
ゴミ袋がいっぱいになるたびに、謎の達成感があった。
部屋の余白が増えるのが嬉しくて、だんだんエスカレートしていった。
「これ、本当に必要?」
「1年使ってないから捨てよう」
気づけば、便利なキッチン家電も、来客用のスリッパも、少しでも「無駄」だと感じたものは手当たり次第に捨てていた。
そしてついに、リビングのラグと、夫が独身時代から使っていたローテーブルまで処分してしまった。
真っ白な壁と、何もないフローリング。
「これよ、これ!」
私は、理想のミニマリストに近づけた気がして、一人で満足していた。
生活が「不便」に変わる時
でも、その自己満足は長くは続かなかった。
ある週末の夜。
夫が「ちょっとコーヒー飲みたいから、マグカップ出して」と言ってきた。
私は気まずそうに答えた。
「ごめん、マグカップ捨てちゃった。グラスでいい?」
夫は怪訝そうな顔をした。
「は?なんで捨てるの?毎朝使ってたじゃん」
「だって、グラスで代用できるし……数が少ない方が管理が楽だから」
夫は大きなため息をついて、こう言った。
「最近、お前おかしいよ。ラグがないから床が冷たくてくつろげないし、テーブルがないからテレビ見ながらお茶も飲めない。ここは誰の家なの?」
図星だった。
私は「持たないこと」に固執するあまり、家族が「くつろぐ場所」まで奪ってしまっていたのだ。
何もない部屋と退屈そうな息子
翌日の午後。
何もないリビングで、3歳の息子がぽつんと座っていた。
おもちゃも「厳選した一軍」だけに絞って、あとは隠すか捨ててしまった。
だから、いつも出しっぱなしだったプラレールも、ごちゃごちゃのブロックもない。
息子は、数少ないミニカーを走らせてはいたけれど、なんだか退屈そうだった。
以前なら、ラグの上をゴロゴロ転がりながら、いろんなおもちゃを組み合わせて独自の遊びを展開していたのに。
「ママー、あのおっきいブロック、どこ?」
息子に聞かれて、ハッとした。
「あ……あれは、もう捨てちゃったよ。こっちの車で遊ぼうか」
息子は悲しそうな顔をして、「ちがうの。あれで遊びたかったの」とうつむいてしまった。
その瞬間、私の中で何かがガラガラと崩れ落ちた。
私は一体、何のために捨てていたんだろう。
「ミニマリスト」というSNSの幻を追いかけて、家族の笑顔を削り取っていただけじゃないか。
「適量」を知る心地よさ
その日の夜、私は夫に素直に謝った。
「ごめんなさい。私、ちょっとおかしくなってた」
「家族がくつろげない家なんて、意味ないよね」
夫は笑って、「わかればいいよ。明日、ニトリで安いラグでも買いに行こうか」と言ってくれた。
次の週末、私たちは小さなラグと、折りたたみのローテーブルを買った。
息子のブロックも、中古で少しだけ買い足した。
リビングには再び「生活感」が戻ってきたけれど、不思議と嫌な気はしなかった。
今の私は、ミニマリストではない。
でも、以前のような「汚部屋」でもない。
自分たち家族にとって、どれくらいのモノがあれば心地よく暮らせるのか。
その「適量」を知ることができたからだ。
SNSの「映える暮らし」は確かに素敵だ。
でも、カラフルなおもちゃが転がっていて、少し生活感のある今の部屋のほうが、ずっと私たちらしくて居心地がいい。
誰かの正解を真似するより、自分たちの「ちょうどいい」を見つけること。
それが、一番の「豊かな暮らし」なのかもしれない。