「また気持ち悪い……」
夜中の2時。薄暗い洗面所で、私は冷たい便器に顔を近づけて胃液を吐いていた。
妊娠3ヶ月。
世間では「おめでた」と言われる時期なのに、私にとって毎日は「船酔い状態」で生き延びるだけの苦行だった。
私は29歳。初めての妊娠で、フルタイムの事務職を続けている。
つわりが始まったのは、妊娠判明からすぐのことだった。
最初は「ちょっと胸がムカムカするな」程度だったのに、次第に食べ物の匂いがダメになり、最後には水さえ受け付けなくなった。
冷蔵庫を開けるだけで吐き気がし、柔軟剤の匂いすら凶器に感じた。
仕事中はトイレに駆け込むのを必死でこらえ、帰りの電車では座れずに冷や汗を流しながら耐えた。
「つわりは病気じゃないから」
職場の先輩に言われたその言葉が、頭の中で何度も反響する。
病気じゃないなら、なぜこんなに苦しいんだろう。
「俺には変わってやれないから」という冷たい刃
一番辛かったのは、つわりの苦しさそのものよりも、「圧倒的な孤独感」だった。
ある土曜日の朝。
私はベッドから起き上がることもできず、ただ天井を見つめていた。
胃の中は空っぽなのに、吐き気だけが絶え間なく押し寄せてくる。
リビングからは、テレビのバラエティ番組の笑い声と、夫がカップラーメンをすする音が聞こえてきた。
その強烈な醤油の匂いが寝室まで漂ってきて、私は再びトイレへ駆け込んだ。
洗面所でうずくまっていると、夫がひょっこりと顔を出した。
「大丈夫?俺には変わってやれないから、寝てるしかないよね。じゃあ、ちょっとパチンコ行ってくるわ」
その言葉を聞いた瞬間、私の中で何かがガラガラと崩れ落ちる音がした。
変わってやれない?
だから、自分は好きなことをしていいってこと?
私がここで、あなたの子供を命がけで育てているのに?
「……行かないでよ」
掠れた声で言ったけれど、夫には届かなかった。玄関のドアが閉まる音が、やけに大きく響いた。
その日、私は誰もいない部屋で、一人でポロポロと泣いた。
妊娠を望んでいたのは二人なのに、どうして私だけがこんなに苦しんで、彼は普段と変わらない生活を送っているんだろう。
お腹の赤ちゃんは愛おしい。でも、この理不尽な状況をどうしても受け入れられなかった。
孤独を埋めるための「言葉」
翌日、私はスマホで「つわり 夫 イライラ」と検索した。
画面には、私と同じように孤独と戦う妊婦たちの声が溢れていた。
『夫が飲み会から帰ってきた時のタバコの匂いで吐いた』
『「俺のご飯は?」と聞かれて殺意を覚えた』
その怒りの声に共感しながらも、私はある一つの書き込みに目を奪われた。
『男性は、自分のお腹が大きくならない限り、妊娠の辛さを本能では理解できません。だから、「察して」は絶対に無理。具体的に「何をしてほしいか」「何をやめてほしいか」を言葉にして伝えるしかないんです』
言葉にして伝える。
私は、それを怠っていたのかもしれない。
「見ればわかるでしょ」「なんで察してくれないの」と心の中で夫を責めるばかりで、自分の状態を正しく言語化していなかったのだ。
その夜、パチンコから帰ってきた夫に、私はノートを差し出した。
そこには、今の私の状態と、「夫にお願いしたいこと」が箇条書きで書かれていた。
・匂いがダメなので、カップラーメンなど匂いの強いものは外で食べてほしい
・私が寝ている時は、テレビの音量を小さくしてほしい
・変わってくれなくてもいいから、背中をさすったり「辛いね」と声をかけてほしい
・休日は、最低限の家事(ゴミ出しと洗濯)をお願いしたい
夫はノートを読み、少し驚いたような顔をして言った。
「ごめん……。俺、つわりって『ただ気持ち悪いだけ』だと思ってた。こんなに色んなことがダメになってるなんて、本当に知らなかった」
「察して」をやめた先にあるもの
その日から、夫の態度は少しずつ変わった。
休日のカップラーメンはやめ、私が食べられそうなゼリーや果物を仕事帰りに買ってきてくれるようになった。
私がトイレで吐いていると、黙って背中をさすってくれるようになった。
相変わらず、彼は私の苦しみを100%理解することはできないだろう。
彼がゼリーを買ってきてくれても、私の吐き気が治まるわけではない。
でも、「彼が私を気遣ってくれている」という事実だけで、あの押しつぶされそうな孤独感はすーっと消えていった。
つわりは、本当に辛い。
出口の見えないトンネルの中で、自分だけが世界から取り残されたような気持ちになる。
そして、その一番近くにいる夫が無理解だと、絶望は怒りに変わってしまう。
でも、怒りをぶつける前に、一度だけ「自分のトリセツ」を彼に渡してみてほしい。
彼らは冷たいわけじゃなく、ただ「妊婦の現実」を知らないだけなのだから。
「察して」をやめて言葉にする。
たったそれだけのことで、夫婦は「敵」から「戦友」に変われるのだ。