キッチンの隅で、小さなため息がこぼれた。
お気に入りのお皿に、丁寧に裏ごししたほうれん草としらすのペーストを盛り付ける。
鮮やかな緑色と、しらすの白がきれい。
「はい、あーんして」
小さなスプーンを口元に運ぶ。
生後7ヶ月の娘は、スプーンの存在に気づくと、パッと顔を背けた。
いやいや、と首を振る。
ぷいっとそっぽを向いて、ニコッと笑った。
「またか……」
私の中に、重くて冷たい塊がどすんと落ちた。
もう何日目だろう。
朝から手間暇かけて作ったのに、一口も食べてくれない。
口に入れても、すぐに「べーっ」と吐き出される。
私の愛情を、努力を、時間を、全て拒絶されているような気がした。
娘の笑顔すら、今は素直に喜べない自分が嫌になる。
「食べてくれない」という孤独な戦い
離乳食作りは、想像以上に孤独な戦いだった。
本やネットで調べた通りに、食材を茹でて、潰して、裏ごしして、小分けにして冷凍。
「食べてくれるかな」とワクワクしながら準備した日々は、どこへ行ったのだろう。
時間をかけて作ったものが、一瞬で無駄になる虚無感。
「せっかく作ったのに」
その言葉を飲み込みながら、私は冷めたペーストを無言で三角コーナーに捨てた。
毎日、生ゴミと一緒に自分の心も捨てているような感覚だった。
SNSを開けば、「今日は完食しました!」と空っぽのお皿の写真をアップするママたちのキラキラした投稿ばかりが目につく。
みんなちゃんと食べてる。みんなうまくいってる。
なんでうちの子だけ、こんなに食べてくれないの?
「私が作るご飯が、まずいのかな」
「私のやり方が、間違っているのかな」
誰も責めていないのに、自分で自分を追い詰めていく。
夫が帰宅して「今日のご飯どうだった?」と聞いてくるのも、次第にプレッシャーになっていった。
限界を超えた夜の涙
ある日の夕方。
どうしても食べてほしくて、少し味を変えてみたり、スプーンの角度を変えてみたり、歌を歌いながら気を引いてみたりした。
「ほら、飛行機ブーンだよー」
声のトーンを上げて、必死に娘のご機嫌を取る。
でも、娘は一口も食べずに、泣き出してしまった。
その泣き声を聞いた瞬間、私の中で何かがプツンと切れた。
「もう、いいよ」
スプーンをテーブルに置き、私は娘から目を逸らした。
頑張って作ったかぼちゃのペーストが、冷え切って固まっている。
「なんで食べてくれないの。なんで私を困らせるの」
泣いている娘を抱き上げることもできず、私は床にへたり込んで、ただポロポロと涙をこぼした。
育児がこんなに辛いなんて、誰も教えてくれなかった。
愛しているのに、可愛いのに、逃げ出したい。
そんな自分への激しい自己嫌悪で、押し潰されそうだった。
ベビーフードという「逃げ道」
週末、夫が娘の面倒を見てくれている間に、ふらりとドラッグストアに立ち寄った。
ベビー用品コーナーに並ぶ、色とりどりのベビーフード。
「手作りじゃなきゃ、愛情が伝わらない」
ずっとそう思い込んで、市販のものに頼ることを避けていた。
でも、もう限界だった。
私の心が壊れる前に、何かに頼りたかった。
試しに、いくつかのパウチを買ってみた。
翌日の昼。
お湯で温めるだけで完成する、市販の離乳食。
罪悪感を感じながら、娘の口元に運んでみた。
すると、娘はパクリと口を開け、モグモグと飲み込んだのだ。
「え……?」
もう一口。またパクリ。
あっという間に、半分ほどを平らげてしまった。
悔しいような、ホッとしたような、複雑な感情が湧き上がった。
「なんだ、食べるんじゃん」
私の手作りだから食べなかったわけじゃなかった。
たまたま、市販のものの味が好みだったのかもしれない。食感がよかったのかもしれない。
理由は分からないけれど、確かなのは「娘は食べる力を持っている」ということ。
そして、「手作りじゃなくてもいい」という事実だった。
完璧なママなんていらない
「もう、手作りはやめた」
そう決意した時、肩の荷がスッと下りた気がした。
ベビーフードに頼ることは、決して愛情の放棄じゃない。
お母さんの心の余裕を取り戻すための、立派な手段なんだ。
私が笑顔で「おいしいね」と声をかければ、娘も嬉しそうに笑ってくれる。
手作りの離乳食を前にイライラして泣いていた頃より、ずっと穏やかで幸せな食事の時間が戻ってきた。
完璧なママになろうとして、一番大切な「娘との笑顔の時間」を失いかけていた。
食べない日があってもいい。全部市販のものでもいい。
一口も食べずに捨てたとしても、「まぁいっか」と笑える余裕が、今の私にはある。
捨てたのは離乳食だけじゃない。自分を縛り付けていた「完璧でなければ」というプレッシャーも一緒に捨てたのだ。
離乳食の進み具合なんて、大人になれば誰も覚えていない。
大切なのは、今この瞬間を、少しでも多く笑顔で過ごすこと。
そう気づけた私は、もう、離乳食を捨てる時の虚無感に押し潰されることはない。