「ママ、今日お顔に何も描いてないね」
登園準備中、保育園の帽子を被った4歳の娘が、私の顔をじっと見つめて無邪気に言った。
その言葉に、私は鏡の中の自分から目を逸らしたくなった。
私は33歳。時短勤務で事務の仕事をしている。
毎朝の時間は、まさに戦場だ。
朝ごはんにトーストを焼き、娘の髪を結び、水筒の準備をし、連絡帳を書く。
自分の身支度に割ける時間は、よくて5分。
洗面台の前に立ち、適当な下地を顔に叩き込み、ファンデーションを指でパパッと伸ばす。
眉毛だけはなんとか描いて、リップを塗る。
アイシャドウやマスカラなんて、もう何ヶ月も使っていない。
「時間ないし、どうせマスクするし……」
そう自分に言い訳をして、家を飛び出すのが毎日のルーティンだった。
隠せない「疲れ」と諦め
ある日の昼休み、オフィスのトイレで手を洗おうとふと鏡を見た瞬間、私は自分の顔にギョッとした。
朝、急いで塗ったファンデーションはヨレて、ほうれい線にめり込んでいる。
目の下には、青黒いクマがくっきりと浮かび上がり、肌全体がどんよりとくすんでいた。
適当に描いた眉毛は、汗で半分消えかかっている。
「私、こんな顔で電車に乗って、仕事してたの……?」
隣の洗面台には、同期の女性社員が立っていた。
彼女は子供がいないこともあるけれど、髪は綺麗に巻かれ、アイメイクも完璧だ。
彼女の明るくツヤのある肌と、自分のボロボロの肌が並んで鏡に映った瞬間、ひどい劣等感が襲ってきた。
「私だって、昔はちゃんとメイクしてたのに」
独身時代は、デパートのコスメカウンターで新作のリップを試し、休日の朝は動画を見ながらアイシャドウのグラデーションを練習していた。
でも今は、新しいコスメを買うお金も、それを丁寧に塗る時間も、そして何より「綺麗になりたい」という気力すら、日々の生活に吸い取られてしまっていた。
「どうせ時間もないし、お金もないし、私なんか何したって変わらない」
完全に「諦め」の境地に入っていた私だったけれど、その週末、ある出来事が私を変えるきっかけになった。
「ママ、可愛い!」の一言
その日は、娘の保育園の発表会だった。
「せっかくの晴れ舞台だし、少しくらいちゃんとしようかな」
クローゼットの奥から、数年前に結婚式で着たワンピースを引っ張り出した。
そして、久しぶりにホコリを被ったアイシャドウパレットを開き、丁寧に色を乗せてみた。
マスカラも塗り、チークも少しだけ濃いめに入れた。
「ママ、可愛い!!」
リビングに出ていくと、娘が目を輝かせて駆け寄ってきた。
夫も「おっ、今日なんか雰囲気違うね」と少し驚いたように笑った。
その日一日、私は不思議と背筋が伸びるのを感じた。
他のママたちと話す時も、いつもなら「どうせ私は……」と引け目を感じてしまうのに、その日は自然と笑顔で会話ができた。
メイク一つで、こんなに自分の気持ちが変わるなんて。
「諦めたくない」
「ほんの少しでもいいから、自分を好きでいられる顔でいたい」
そう強く思った。
「引き算」のメイク術
とはいえ、平日の朝に「完璧なフルメイク」をする時間がない現実は変わらない。
だから私は、メイクのやり方を根本から見直すことにした。
「全部を完璧に隠す」のをやめて、「ここだけは」というポイントに絞る「引き算のメイク」だ。
まず、くすみやクマを隠すための厚塗りファンデーションをやめた。
厚塗りは時間が経つとヨレて、かえって「老け見え」の原因になると気づいたからだ。
代わりに、少しだけトーンアップ効果のある下地と、気になる部分だけコンシーラーでカバーすることにした。
これだけで、朝のベースメイクの時間は半分に減った。
次に、眉毛。
朝、急いで描くから失敗して、直すのにまた時間がかかる。
だから、休日の夜に「眉ティント」をしておくことにした。
これなら、平日の朝はサッとパウダーを乗せるだけで終わる。
そして一番大きかったのは、「自分のテンションが上がるアイテム」を一つだけ取り入れたことだ。
私の場合、それは「少しだけ良いリップ」だった。
マスクで見えなくても、自分の好きな色を唇に乗せるだけで、「今日も頑張ろう」とスイッチが入る気がした。
今の私のメイク時間は、相変わらず5分だ。
アイシャドウもマスカラも、平日はほとんどしない。
シミもクマも、完全には隠しきれていない。
でも、オフィスのトイレで鏡を見た時、以前のような絶望感はなくなった。
そこには、完璧ではないけれど、少しだけ血色が良くて、自分を大切に扱おうとしている「私」の顔が映っているからだ。
「時間がないから」と全部を諦めてしまうのは、あまりにも悲しい。
全部できなくてもいい。
ほんの少しの「引き算」と、一つの「お気に入り」があれば、自分の機嫌は自分で取れる。
もし今、鏡の前でため息をついているママがいるなら。
明日、少しだけいつもと違うリップを塗ってみてほしい。
その小さな色が、きっとあなたの日常を、少しだけ明るく照らしてくれるはずだから。